ららら♪クラシック 瀧廉太郎 西洋音楽に捧げた23年の生涯

瀧廉太郎の「花」を「西洋音楽のあけぼの」に相応しい歌として表現されていました。でも私の頭の中で瀧廉太郎はシューベルトやシューマンと並ぶ大作曲家としてイメージしていました(確かに、23歳で亡くなったのでシューベルトやシューマンのように交響曲や協奏曲など大規模編成の管弦楽で演奏する曲はありませんが、曲を規模や長さだけで評価するのは愚かなことです。なぜならただ規模が大きく長いだけのつまらない曲も沢山あるからです)。
番組では、瀧廉太郎「花」ここが革新的だ!として①日本初の合唱曲②日本初のピアノ伴奏など今ではあたりまえのことをシューベルトやシューマンのような芸術的歌曲の第一歩として評価していました。
音楽を技術面からとらえると確かにそうなのかもしれませんが、シューベルトやシューマンだって、瀧廉太郎の「花」のような素朴で美しく芸術性の高い名曲は決して多く残してはいません。
シューベルトなら「菩提樹」「野ばら」「鱒」などシューマンなら「トロイメライ」などは瀧廉太郎の「花」のように美しい名曲ですね。留学先のライプツィヒ音楽院(設立者はメンデルスゾーン)やドイツ人は心穏やかではなかったのではないか(シューベルト1828年没、シューマン1856年没、メンデルスゾーン1847年没で瀧廉太郎が留学した1901年には彼らは既に神格化された存在だったのに東洋から来た日本人が彼らに劣らない名曲を作曲していたことに対する嫉妬でしょうか)?

そこでこんな逸話も残っていますので紹介します(下記は竹田市-嚶鳴(おうめい)フォーラムのホームページを参考にしたものです)。
「日露戦争の英雄廣瀬武夫は日露戦争の前に、ロシアのサンクトペテルブルグに留学しています。同じ時期に瀧廉太郎はドイツのライプツィヒ音楽院に留学しています。瀧廉太郎は、留学中の廣瀬武夫に「荒城の月」の楽譜を送ります。演奏会で廣瀬武夫はロシア人にピアノ演奏を依頼、聴衆は感動した。廣瀬武夫は作曲は瀧廉太郎という故郷竹田の後輩と伝える。日本人の作曲と信じてもらえないほどの高い評価を得た。」

NHKテレビ「坂の上の雲」でも、ロシア人将校が未開の国の日本人の優秀さを始めて認識して恐れを抱く場面に紹介されていました。

またライプツィヒには瀧廉太郎の記念碑があります。場所は、なんと「モーツァルト通り」沿いで、その隣は「ベートーベン通り」!まさに、音楽エリアで、ドイツ人の瀧廉太郎へのものすごい評価が垣間見えますね!

でも日本人留学生の中で瀧廉太郎がドイツで結核に感染したのか謎ですね?感染経路など100年以上も前のことなので調べようがありませんね。

遺作であるピアノ曲「憾み」は、ウィキペディアによるとショパンの同じ調性と拍子である前奏曲第24番を思わせるとなっています。私のイメージではシューベルトの晩年の傑作である「即興曲集 第3番 Op.90-3」 を思わせますが、メロディは「荒城の月」のように瀧廉太郎だけがもっている日本的で独創的な曲です。シューベルトの「即興曲集 第3番 Op.90-3」は自分の残り短い人生を知ってあきらめと深い哀愁を感じる美しい名曲です。

シューベルトやシューマンといった世界の音楽史に燦然と輝く大作曲家が残した名曲と、勝るとも劣らない名曲を残した日本人作曲家は瀧廉太郎をおいて他にはいないと思っております。

About 管理者

昭和49年日本大学理工学部数学科卒業。さすらいのSEである。卒業ゼミで数学科宇野教授から君は頭はいいが世間知らずだと言われる。「大きいところで尻尾になるより、たとえどんなに小さいところでも頭になれ」と教えられるが、真の意味がわからず日大理工卒業後さすらいの旅に出る。あれからもう40年、最近やっと安住の場所を発見する。
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