BS1スペシャル「戦慄の記録 インパール」

NHK BS1スペシャル「戦慄の記録 インパール」の感想です。番組では、インパール戦を補給線を軽視した無謀な戦いとして、日本陸軍上層部の無能や無策を強く批判しています。また日本陸軍が一方的に敗北した戦いであったようなイメージを抱かせる内容になっています。ところがウィキペディアによると、インパール戦での戦死と戦病は 日本軍が戦死26,000戦病30,000 イギリス軍が戦死17,500戦病は第33軍団のみで47,000となっており、勝敗はかなりの競り合いだったのではなかったのかという疑問が残りました。なのでNHK以外からの出版物から、インパール戦を調べてみることにしました。陸軍士官学校61期生の佐藤晃(さとう あきら)氏が書かれ、㈱芙蓉書房出版から出版された「帝国海軍失敗の研究」から「インパール作戦は戦略的に間違っていない」の要点を抜粋しました。

インパールに布陣するイギリス第四軍団の構成は次の通りである。
第四軍団(スクーズ中将)
第二十三師団(ロバーツ少将)インパール以北に布陣
第一旅団、第二十七旅団、第四十九旅団、第二十三戦車旅団
第二十師団(グレーシー少将) パレル、タム方面に布陣
第二十二旅団、第八十旅団、第百旅団
第十七師団(コーワン少将)  南方のトンザンに布陣
第四十八旅団、第六十二旅団

対する日本軍は牟田口廉也中将の第十五軍で、その構成は第三十一師団(佐藤幸徳中将)、第三十三師団(柳田元三中将)、第十五師団(山内正文中将)

1. インパール作戦開始
インパール戦は遅れに遅れて、昭和十九年三月八日、南方のチン高原からの(第三十三師団)の攻撃で開始された。牟田口第十五軍軍司令官は全軍に布告した。「駿足にして無敵なる進攻こそ本作戦勝利の鍵と知るべし」貴重な時はすでに過ぎ去ろうとしている。敵の戦力が増大する前に片付けねばならぬ、のである。(第三十三師団) の山本歩兵団長率いる右突進隊は軍直轄支隊となってカバウ渓谷を北上、タムからパレルを衝いた。印度国民軍第一師団が行動をともにした。(第三十三師団)主力は、インパール平地の南端に布陣する敵第十七師団を、トンザン~シンゲルの狭盆地に包囲した。インパールからは第十七師団救出のため第二十三師団の第二十七旅団が急行して、第十七師団の退路を塞ぐ笹原連隊を攻撃している。山本支隊を欠く(第三十三師団)が、敵全戦力の半数近くをこの地に拘置しているのである。(第三十三師団)の攻撃開始に遅れること一週間、三月十五日、(第三十一師団)、(第十五師団)が攻撃を開始した。両兵団はチンドウイン河を一気に渡河、(第三十一師団)はインパール平野の北端コヒマを、(第十五師団)はインパール東北地区を目指して標高四〇〇〇メートルのナガ山系に踏み込んだ。(第三十一師団)、(第十五師団) の進攻は正に神速であった。
三月二十九日、(第十五師団) の本多梃身隊は、早くもミッションでコヒマ~インパール道に到達した。三月二十一日、敵第二十三師団の第四十九旅団を撃破して、ウクルル・サンジャックを占領した(第三十一師団)は、四月六日コヒマを占領して、アッサムからインパールに通ずる輸送路を遮断した。第三十三軍団の司令官スタッフォードは、我が耳を疑って「トヘマの間違いではないか」と何度も聞き直した。四月二日には、第十四軍司令官スリムとスチルウェルはジョラハットに会談し「今後五日乃至十日間がもっとも危険」と結論していたが、コヒマを失って、イギリス軍にとって情勢はさらに悪化した。

2.決定的敗因・柳田元三とディマプール
山本支隊と(第三十一師団)、(第十五師団) の作戦が見事に進展している頃、インパール戦の破綻は、インパール平野の南端から行動を起した(第三十三師団) の柳田元三師団長から発生していた。敵第十七師団の退路を断ち、自らも敵第二十七旅団に攻撃されている笹原連隊の苦戦は筆舌に尽しがたい。しかしインパールもまたイギリス軍にとってピンチである。戦力の半数を(第三十三師団)主力に割かれた上、(第三十一師団) に第四十九旅団を撃破されてコヒマを占領され、アツサムとの連絡を断たれた。北からは(第十五師団)が、そして東方のタムからは山本支隊と印度国民軍が迫っている。その二月二十六日、(第三十三師団) の田中参謀長以下主要参謀が前線の戦闘指導に出掛けた留守、笹原連隊から問題の電報が師団司令部に届いた。打電した内容は「全員玉砕覚悟で任務遂行」の類いであったのを、柳田には「全員玉砕す」という意味で届いたとのことであった。田中参謀長等が司令部にいなかったことも不幸であった。柳田は、笹原連隊に包囲を解いて後退するよう命じた。退路が解放されたイギリス第十七師団も救援の第二十七旅団も、脱兎のようにインパールに脱出し、危機に頻したインパールの防備を強化した。これに追尾してインパールに肉薄する手もあったろう。だが、柳田は師団を停止させて体制整備を命じた上、さらに理解しがたい行動にでた。牟田口にインパール戦の中止を意見具申したのである。烈火のように怒った牟田口は参謀を派遣して(第三十三師団)の前進を命じたが、その行動は遅れに遅れ、敵のインパール防衛陣地ビシエンプールまで四〇キロのトルボンに到着したのは四月十日であった。牟田口軍司令官の意図する拙速作戦はすでに崩壊している。牟田口は柳田を更迭した。以上が、戦後社会が牟田口を非難する柳田元三罷免劇の概略である。あの戦争で、参謀本部の無謀な作戦計画に黙々と従った師団長は数多い。第十七軍や第十八軍などは、参謀本部の指示を無視した方が、戦略的には却って好結果を生んだだろう。その中で、最も大事なところで柳田一人無用の反抗を示した。真に残念である。四月六日には、シンゼイワの(第五十五師団)を圧迫したイギリス第十五軍団第七師団のインパールヘの空輸が始まった。作戦方針に反する(第三十三師団) の行動に絶望した牟田口は、北方の(第三十一師団) に目を付けた。その四月六日は(第三十一師団)がコヒマを占領した日である。敵はコヒマの北西四五キロのディマプールヘ敗走している。この敵と彼我錯綜して進めば一日か二日でデイマプールヘ乱入できる。「あそこは、インパールの補給基地だ。糧食も武器弾薬もいくらでもある。我は蘇生しインパールは千上がる」だが、作戦地域外への第十五軍の進撃を方面軍の河辺軍司令官は許さなかった。牟田口の敗北は事実上この瞬間に決定した。その後の戦闘は意味をなさない。方面軍は早急にインパール戦中止を決定すべきであったろう。シンゼイワからは第七師団に続いて第五師団の空輸も始まっている「インパールの敵戦力は増える一方である。それどころではない。我が輸送路は、鉄道も自動車もチンドウィン河の木造船も、敵空軍のために叩かれている。戦力を引き抜かれた我が陸軍航空部隊には、それを阻止する力がない。そして方面軍に最悪の連絡が入った。「この作戦補充の為内地からくるはずだった兵力・兵器・弾薬は、そのまま太平洋方面向けに変更になった」のである。ブーダンビル・ギルバートでの相次ぐ航空戦で、海軍航空が壊滅させたはずのアメリカ第58機動部隊がマーシャルにきて、同島守備隊を「鉄槌でマッチ箱を潰すように」爆砕した。連合艦隊はトラックを捨てて敗走した。海軍が大言壮語した中部太平洋が危ないのである。もはやインパールどころではなくなった。河辺省三方面軍軍司令官が、牟田口のディマプール進攻を許さなかった理由で、少なくとも私を納得させるものを目にしない。だが、インパールの後方補給路がイギリス空軍に叩かれているだけではない。ビルマにくる兵員・軍需資材が停止されたのである。ディマプールヘの進攻を危ぶんだのも分かるような気もする。しかし英軍側では、該方面の最高指揮官スタッフォード将軍以下、口を揃えていう「あの時(第三十一師団)がディマプールにきたら牟田口は確かに勝っていた。そしてインパールも熟した李のように落ちていた」と。そしていう「勝敗は全く毛髪一本の競り合いだった」と。さらに東南アジア総司令官マウントバツテンはいつている。
「(ビルマの日本軍は)地球上二度とみることのできない精強な軍隊である」と。インパールは苛烈な戦闘の末の敗北である。マーシャル、トラック、パラオ、そしてボルネオ、瀬戸内海へと、一途敗走を続けた連合艦隊などと一緒にする訳にはゆくまい。もしもである。日本海軍が絶対国防圏強化構想に違反する前方決戦などに固執しなかったら、そして、アメリカ第58機動部隊を壊滅せしめたという嘘の戦果を叫ばなかったら、陸軍は地上軍を無駄に太平洋の彼方に送り、ビルマから飛行戦隊の大幅抽出する愚を犯すこともなかったろう。インパール作戦開始の時期はかなり早まったであろう。そして戦力も、特に航空戦力はあのように劣勢ではなかったろう。インパール作戦の最大敗因は、御前会議まで開いて決定した「絶対国防圏強化構想」を、戦略無知の日本海軍が崩壊させたことにあるというも、過言ではあるまい。もし日本海軍がブーゲンビル、ギルバートに、大勝利の誇大戦果を叫ぶようなことだけでもなかったら、インパール作戦の中止はもちろん、防衛線の泰緬国境への緊縮もあったのではあるまいか。私は大東亜戦争を惨敗に導いた海軍の体質について、いろいろいってきた。独立統帥権、戦略能力、戦術能力、情報能力、後方輸送能力、等々……と。だが、負けた戦闘を大勝利と叫ぶようなことをせず、普通に正直でさえあったら、あのように惨敗を繰り返すことは防げたような気さえするのである。

[私の感想]
NHK BS1スペシャル「戦慄の記録 インパール」では、日本陸軍(第三十一師団)はコヒマの戦いで三千人の死者をだし短期決戦に挫折したとされていましたが、ウイキペディアでは「1944年、第二次世界大戦中に、日本軍によるインパール作戦の一環として南に位置するインパールと同時にコヒマにも進撃し、実際に佐藤幸徳中将率いる日本陸軍第31師団はコヒマを制圧した。」とされており、「帝国海軍失敗の研究」のほうがより正確に記述されています!「しかし連合軍の抵抗は頑強であり、その上連合軍の強力な反撃でインパール方面が瓦解し無残な状態となり、佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将の命令に反発し、独断でビルマ方面に撤退している。」とウイキペディアでは続けて記述されていますが、インパール方面が瓦解し無残な状態なった原因を、「帝国海軍失敗の研究」では(第三十三師団)の柳田師団長の反抗により笹原連隊に包囲を解いて後退するよう命じたため、退路が解放されたイギリス第十七師団や救援の第二十七旅団が、インンパール方面に脱出できたためとより詳しく説明されています。またウイキペディアではコヒマでの白兵戦では双方が大きな被害を出したと記述されており、NHK BS1スペシャル「戦慄の記録 インパール」のような日本陸軍が一方的に敗北したような表現は誤りのようですね!

さてNHK BS1スペシャル「戦慄の記録 インパール」では、インパール戦について二つの大きな疑問が残りましたが、それを「帝国海軍失敗の研究」が見事に解決してくれました。
1.イギリス軍は航空機輸送で武器や食料を補給できたのに、何故日本軍は航空機輸送で武器や食料の補給ができなかったか?
解答:海軍の戦果を信じて海軍の要請を断れず陸軍は地上軍とビルマから航空機を大幅抽出して太平洋の彼方に送ったため、ビルマ方面には既に航空機がなかった。
2.コヒマに留まれという牟田口廉也軍司令官の命令に反発し、第三十一師団の佐藤師団長は独断でビルマ方面に撤退していますが、雨期の中イギリス軍の追撃を受けてアラカン山系のような険しいところを食料が全くない状態で撤退するよりも、牟田口廉也軍司令官の命令に従いコヒマに留まりインド北部で食料が調達できるところを探したほうが、部下の生存率は高かったのではないか?
解答:イギリス軍の最高指揮官スタッフォード将軍が言ったように、「あの時(第三十一師団)がディマプールにきたら牟田口は確かに勝っていた。」コヒマに近いディマプールには武器・弾薬・食料が沢山あったということですね!牟田口廉也軍司令官のインパール作戦の基本は、敵軍から武器・弾薬・食料を奪うということで決して補給を軽視したわけではありません。それを凡庸な将軍達が理解できなかったと言うべきでしょうか!

最後になりましたが、インパール戦はイギリス軍と日本軍だけの戦いではありません。チャンドラ・ボースが率いるインド国民軍も日本側で参加しています。ウイキペディアによると歴史家のエリック・ホブズボームは、「インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるというよりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされた」としている。NHK BS1スペシャル「戦慄の記録 インパール」では、このことには全く触れていません。インパール戦を無意味で無謀な戦いとしか表現していません。NHKに受信料を払いたくない人の気持ちも分かりますね!!!

[2018/01/30 追記]
youtubeを検索していると偶然にも「NHKスペシャル 幻の大戦果 ~台湾沖航空戦の真相~」という番組がありました。この番組を見ると佐藤晃氏が書かれた「帝国海軍失敗の研究」は正確な記録ということが分かります!海軍の嘘の戦果(日本海軍機によるアメリカ空母艦隊の壊滅)を信じて、フィリッピンのルソン島で防御を固めていた陸軍をわざわざレイテ島に移動させたが、アメリカ空母艦隊からの艦載機の攻撃で壊滅したという事実が報告されていました。

About 管理者

昭和49年日本大学理工学部数学科卒業。さすらいのSEである。卒業ゼミで数学科宇野教授から君は頭はいいが世間知らずだと言われる。「大きいところで尻尾になるより、たとえどんなに小さいところでも頭になれ」と教えられるが、真の意味がわからず日大理工卒業後さすらいの旅に出る。あれからもう40年、最近やっと安住の場所を発見する。
This entry was posted in 歴史・スポーツ. Bookmark the permalink.

Comments are closed.